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小島アジコのブログです

新しい社会のロールモデルとしての「推し」を使った処世術

こちら、1月の末に発売された(id:p_shirokuma)先生の新刊『「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド』読ませて頂きました。

これはその本を読んで自分の感じたことを書いたエントリになります。なので、本の内容からは一部(かなり)離れた内容になっていると思います。

こちらの本を読む前に、自分の中の推しの概念について整理した記事がこちらにあります。推し、オタ、萌え、にたいしての自分なりの捉え方や概念の境界について、こちらの本を読んで影響される前に出力しておきたかったので、このような記事を書きました。

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本を読んでの感想ですが、こちらの本は推しや萌えの社会分析の本ではなく『”推し”という感情を使って、如何に社会適応をしていくか(そのヒントにしていくか)』という本でした。推しの定義やそのメカニズムについての分析は全5章のうちの1章で軽く触れ、残りは、推しの精神分析的な解釈(マズローのピラミッド、承認欲求と所属欲求の話とコフートナルシシズム、鏡像自己対象と理想化自己対象)の話を引いて、それと『推し活動』の関連、そして、その『推し活動』を使って、如何に社会適応スキルを上げていくか、ということページが割かれていました。なるほど、はてなはてなダイアリーだった時代から『承認欲求』についてのエントリを上げていたシロクマ先生らしい本だと思いました。

そして、ちょっと意地の悪い要約をすると、

「推しという感情を使って、人に迷惑をかけずに効率よく生きていきましょう、社会適応をして、自分の利益や成長を最大化しましょう」

という本です。自己啓発本ぽくもあります。

シロクマ先生と自分の、『推し』の定義の違い


そして、この本で定義されている『推し』の範囲に、自分とシロクマ先生の間に大きな乖離があるように思いました。
自分は、推しというのは、非日常的なもので、自分の生活から乖離して、その距離の遠さゆえに、自分の理想なり憧れなりを投影できるものだと認識していました。一方、この本では『推し』というものをもっと広くとらえていて、日常生活の中にもっと入り込み、普段の生活や行動の中で自然に行っていく活動、行動、好意の表出、の部分も推し活としてとらえているようでした。
また、自分は「推す」という行為を一方通行の感情の表出と考えていますが、この本の定義では、ある程度の相互作用も含めて、『推し』と呼んでいて、その部分が、自分が読んでいて少し混乱したところでもあります。

シロクマ先生の考える推しは、自分の考える推しの領域よりももっと広い範囲、この著作の中で述べられている『コフートのいう(鏡像自己対象/理想化自己対象)』の及ぶ範囲を『推し』ととらえられているように思いました。
鏡像自己対象というのは、自分の承認欲求を満たしてくれる対象、例えばTwitterで『いいね』をしてくれたり、フォローをしてくれたりする相手のことです。理想化自己対象というのは、自分の理想やロールモデルと閉めしてくれる相手で、身近な尊敬できる相手であったり、2次元の理想的なキャラクターであったり、インフルエンサーであったりです。
また自分が推すだけではなく、”うまく”推されることによって、人生を豊かにしていこう、そういう提案をしています。

この本で語られる推しという感情のメカニズムと、なぜ、いま推しなのか、という時代背景の話と、どのように推しを利用していくのか、という話しはとても興味深かったです。

自分にとっての『推し』というもの

そして、自分はその主張にいくつか引っかかるところはあります。
自分にとっての『推し』というものの取り扱いについて。自分にとって推しというものは『特別な物、ハレのモノ』と認識されています。『ハレのモノ』というのは、日常の辛さやマイナス、どうしようもない辛さをリセット、および忘れさせてくれるためのもので、けして日常使いするものではないと思うのです。そういうことをしていると、いつか日常の澱がたまって泥になってしまう、そんな風に思います。

そもそも、なぜ、人生において『ハレのモノ』が必要なのか。それは、多くの人(だいたい50%くらい)にとって、人生の総和というものが、マイナスだからです。不幸と幸福をならせば、明らかに不幸の量が多くなります。いきるの辛い。
簡単に説明します。
誰でも生きていると何かを得ます。楽しいこと、嬉しいこと。しかし、それはいつか必ず失われます。そして、得たことの喜びよりも失うことの悲しみの方が、大きくなるように人間は出来ています。100円を得た喜びと、100円を失う悲しみを比べたら、悲しみの方が大きかった…というようなことを実験で確かめられた…というような記事をどこかで読んだことがあります。そういう実験をしなくても、多くの人は感覚として、失う悲しみの方が大きいと実感しているでしょう。そして、最終的に、全てのものは失われて行きます。愛した人もいつかはいなくなり、能力や容姿も衰え、情熱も消え、そして最後には死があり、その先には何も持ち越せません。人生は、苦です。人生の総和をプラスにできるのは恵まれている人でないと難しいでしょう。理論的に人生というものの価値、幸福というものを考えていくと『反出生主義』のような考えに行きつくしかありません。

でも、だからこそ、人生において『ハレのモノ』は必要なのです。ハレのものは、血を吐きながら続けるマラソンの給水ポイントであり、水泳の息継ぎです。辛い日常のよすがであり、希望であり、今日は辛くても次の『ハレのモノ』まで頑張ろうと思って毎日を暮らしていくためのエネルギー源です。滅多にないし、得難いものであるからこそ価値がある。それが『ハレのモノ』です。

日常的な推し

では、日常的な推し、とはどういうものなのか。

この本の中では、『ソーシャルな所属欲求を満たすもの』としてかかれています。これは、今から少し前の社会では、会社であったり、国であったり、共同体の中にいて、その共同体への帰属意識、好意(推し)によって、本人の所属欲求は満たされていたのですが、それが個人主義が広まり、満たされにくくなった今、代わりに、今でいう『推し』がその所属欲求を満たす普段使いの自己対象の先として選ばれるようになった、というように述べています。
この本は、推しというものを、『コフートのいう(鏡像自己対象/理想化自己対象)』と定義しています。自己対象を通して心理的に充たされていく体験を『推し』と呼んでいます。

では、なぜ、今、推しなのか


なんで、そのコフートのいうナルシシズムを満たす対象が、『推し』なのか。『現代的な推し』のない時代はいったいどうやっていたのか。それについても触れられています。(多分ここがこの本の重要なところだと思いますが)
かつては、人間関係が濃密で、身近な人間にその鏡像自己対象も理想化自己対象も託すことができました。そして、そのナルシシズムの成長に重要な『適度な幻滅』もそこから得ることができた。しかし、現代になり、その人間関係が希薄になり、『普通に成長』していく過程でその自己対象を得ることが難しくなった。なので、『推し対象』をうまく使って、そのナルシシズムの成長を得て行こう、というのが、この本の主張です。

ここから、自分は上の図のようなことを思いました。

右側が昭和時代ごろの人間関係、そして、左側が現代の人間関係です。
以前は、人間関係が相互の好意のやり取りによって変化、成長していったものが、『現代的な推し』的、すなわち、相互の好意の交流ではなく一方的な好意、そしてその好意にこたえる形での自分自身の成長、という、感情の一方通行という形になってしまっているのではないか、と思っています。

これは、この本には書いていないことですが、自分は「推し」というものは「安全な片思い」というような関係性だと思っています。(これは『推し活』が安全ということではなく(推し活は時に無茶苦茶危険です)片思いとして安全だということです)それは、「好意に対して好意が帰ってくることを期待しない(相手が自分に向けて感情を送ってくることがない)」ということでもあります。自分は感情の安全圏にいて、相手に対して感情を使うことができる、というのが『推し』の利点です。相手に対してリターンを期待しない。それは、個人主義の行き届いた現代において、非常に理想的であり効率的なやり方であると自分は思います。必要な人間関係を必要なだけ、アラカルトで選び取っていくというのが、地縁社会や組織社会から個人として切り取られた現代において、もっとも適した所作なのでしょう。

『パンがなければケーキを食べればいいのに』

『パンがなければケーキを食べればいいのに(実際にパンはなく、但しケーキはふんだんに売るほどある)』ということを言っている本だと思いました。社会の変化が起こり、今までの普通にあったナルシシズムを成長させてくれるような環境(パン)はもう身近にない。だから、ケーキ(推し)を食べて、栄養としていこう、という提案をしているように思います。ただ、ケーキは、パン(かつてのような濃密な社会)とくらべて、成長に必要な要素(適切な対象に対しての幻滅など)が全て詰まっているわけではない、だから、自分で工夫して、適切に学び取っていかないといけない。というようなことだと思いました。ただ、『現代的な推し』以前の人間関係への社会としての回帰は難しいので、それと似た状態をつくろう、後輩や、先輩、同期、身近な人間を『推し』て敬意をもって接するようにしていこう、そういうことだと私は読みました。

人の環境と住宅の話を少しします。昔から人はいろんな場所、環境に適応して生活してきました。そして、その住居というのは、その環境ごとにその場所で一番取れる建材を使って建てられています。木材の豊富なところでは木材を使って、石材の豊富なところなら石を積んで、水の降らない砂漠地方なら日干し煉瓦を使って、氷の解けない北極圏では氷のブロックを使って、草原の遊牧民は羊の皮を使って。
そして、その建材の性質によって、その建物の構造(力学的構造)も変わってきます。木材ならラーメン構造、石材、レンガなら壁構造、氷のブロックならドーム構造に、皮を使うならテント構造に、というように。人が安心安全に暮らすためのシェルターは、そうして、『今そこにあって手に入るもの』をうまく利用して(またはそれ以外の方法がなくて)作られてきたわけです。

同じように、この、人間社会におけるシェルターも、『今そこにあるもの』をより合わせて作っていかないといけない。それは、『推し』であったり、またはそれ以外の人間関係であったりするわけですが、その素材はまた、その素材の力学的性質に合わせて組み合わせて建物を編んでいかないといけない。木材の代わりに石材を使ってラーメン構造を作っても崩壊してしまうように、その性質にあった『世渡り』の方法を構築していかないといけない。

この本は、今、そのような今まで使っていた素材の枯渇と、新しく生まれた素材について論じて、そしてそれをどのように活用していくかについての提案がなされている、と自分は読み解きました。読んでいて、確かに、と頭を縦に振るところも多かったです。

でも、それは、すごく難しいことのように思います。だって、人はそんなに賢くない。体力もない。
殆どの人は、目の前に転がってきた食べ物を口の中に放り込むだけで精一杯です。

この本は、そういうことを賢くできる人、リソースがある人、タスクを処理できる人、客観視できる人向けの本だと思いました。


(経済的な豊かさではなく、人間的な余裕のありなし)

他者に対して敬意をもって生きるということは実はすごく難しいことです。そして、誰かから、それを与えられるというのも、また、得難いことであります。相互の推し活をうまく回せるようになればそれははずみ車のように回り続けるのでしょうが、その最初のはずみ車を回すだけの燃料を持ち合わせている人というのは、そんなに多くはないのではないか(50%くらい)と思います。『現代的な推し』が最初からあり、それでナルシシズムをみたしていくことに慣れた(=ナルシシズムを”適切”に成長させることに失敗した)人間が、そのはずみ車を回すだけの燃料を無から捻出できるのか。

どうやっても上手くいかず、色々な物をギリギリで切り詰めてやっていってる人間には、すこし難しいのではないかな、と感じました。

この本は、シロクマ先生が以前著した『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて。』と地続きの本であると思います。
人間関係も漂白され、人のテクスチャが理想化され、不潔や不愛想や不道徳がキャンセルされる時代において、どうやってサバイブしていけばいいんだろうね。という嘆きが文章の隙間から漏れているような気がしました。
推しつ推されつ、うまく関係性を作って生きて行こうね、とこの本は書いてます。でも、「現代的な推し」対象であるということは、理想化されるということです。「現代的な推し」対象として振舞うということは、自分を「理想化」された状態、不快なテクスチャを削り落とした状態として生活するということです。でもそれって、人間っていえるのか?そういうノイズも含めて、嫌なところも含めて、腐れ縁みたいにそばで寄り添って関係性を保っていくというのが、人間であり人間関係ではないのか。でもそれは現代では少し難しいのでは?それを得れる人が、これからの世の中どれくらいいるんだろう。そういうことを考えずにはおられませんでした。

面白い本でしたし、静かに見えて、かなり野心的な本だったと思います。

おまけ。ロールモデルの賞味期限の短さ

この本で提案される推しをつかったロールモデルに対して、それは本当に大丈夫なのか?という疑問もあります。
現在は、社会の変化が大きく、ロールモデルが新しく定義されても、その寿命が恐ろしいほど短い時代です。おひとり様、というものがもてはやされた時代がありましたが、結局20年も続きませんでした。1世代も続かず、そのロールモデルに身を寄せた人は空中に放り出される形になりました。マイルドヤンキーもファスト風土も、結局一過性の過渡期の物で、永続性のあるものではありませんでした。確かに、今を生きるために、生活をより良くするためにロールモデルは必要でしょう。しかし、その方法や術理を鵜呑みにすることに対して、少なくない不安を感じてしまいます。「推し」で心はみたされる?生活も成長も満たされるかもしれません。でも、それは永続的なモノでしょうか。

おまけ。やっぱり、自分にとって「推し」というのは「百万本のバラ」

自分は、自分の定義による推しというものは結局「百万本のバラ」なのだと思っています。
「百万本のバラ」聞いたことのない人は是非聞いてみてください。名曲です。一生のうちのほんの一瞬の邂逅が、それがお互いの理解しあうものでなくても、その邂逅によって人生全てが塗り替わってしまうような、例え、最後、泥の中で息絶えることになっても、その瞬間の輝きを胸に持って、「いい人生だった」と死んでいけるような、それが、『推し』であり『恋』であると、自分は思うのです。人生は均してみると不幸の方が多い、でも、最後に幸福だと思える、『推し』というのはそういう力を持っていると思います。適切に生きていけなくても、適応できなくても、人生のうちにそのようなものがあれば、それはいい人生だったと思います。それが、『推し』の効用として一番重要なものだと、自分は思うのです。

みんながみんな、社会に適応して、うまく生きていく必要はないと、そう思います。