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小島アジコのブログです

『表現』というものは、”呪い”だ。

頭が動かない。ここ数日の疲れからか、後は少し脳を使う作業をしたからか、何かを考えたり、ちょっと手のかかる作業をすることが出来なくなってしまった。最近ちょっと考えたりすることが難しい傾向にあるので、少しこうやって手を動かして文章を書きながら、リハビリみたいなことをしようと思う。

表現者について

ちょっと前に、表現者についての話がはてなブログで盛り上がっていた。

誰もが表現者になれる時代はとっくに終わってるんだよ - シロクマの屑籠
ほとんどの人は、そもそも表現者になりたいとは思ってないのでは - ふろむだ@分裂勘違い君劇場

まあ、表現者、という曖昧ないい方で全体的にもにょもにょする文章で、本当にお気持ちなのだろうと思う。何となくの自分を取り囲む世界からの圧力から押し出された系統立てられてない主観。自分はこの、世界からの圧力で、自分と世界との境界を破るように絞り出された何か、これこそが表現だと思う。

そもそも表現とは何か

表現について語るとき、まず、表現とは何かを定義しなければならない。そしてその定義は『表現』という言葉の多様な使われ方によって、一様には決まらない。だから、今決めるのは、このブログ記事内で、自分が使う『表現』という言葉の定義だ。

自分は、『表現』というものに対して思う前に、人間の世界とのあり方について、自分がどういう認識をしているのかについて話そうと思う。人にとって宇宙は『自分という小宇宙』と『世界という大宇宙』に分かれている。自分の中に認識する主体としての小宇宙があり、そして、そしてその体の外側に、自然、自分の及ばないモノとしての世界がある。世界は時に自然であったり、社会であったりする。『小宇宙』と『大宇宙』の間には常に摩擦と情報のやり取りがあり、そうやってお互いを認識している。『小宇宙』がなければ『大宇宙』がなく、『大宇宙』がなければ『小宇宙』がない。”主観としての個人”としての世界の認識は、そのようにして成立している。

そして、表現。表現というものは、『小宇宙が想定する大宇宙』が小宇宙の形而下的な行動によって、変化をさせることが出来ないときに起こる。

表現というものは、”呪い”だ。

呪い、という言葉が物騒なら、祝い、寿ぎ、祈りと言い換えてもい。

自然科学的な力を用いずに、超自然的な力を使って、大宇宙のありようを変えようと行動をすること。それが『表現』の本質だと思う。

もちろん、その行動によって、物理的に自然が変化するわけではない。しかし、その行動を起こすことによって、『表現』を行ったものの世界に対する認識が変化する。雨ごい、豊穣祈願、恋愛成就、このような祈りや儀式はそれゆえに『表現』だと僕は思う。

そして、本を書く、漫画を描く、文章を書く、そのような行為もまた、『超自然的な力を使って大宇宙に対して変化を求める』なら『表現』であると思う。そして、自然を相手にするのと違い、社会というものは、それ自身が呪詛のようなものでできている。自然ではない、形而上の存在である。なので、『表現』が効く。呪いが、祝いが、社会に対して影響を与える。少し話が脇にそれるが、『自然的な(物理的な)力を使って大宇宙に対して変化を求める』というものは『表現』ではない、とここでは定義する。例えば、農家が野菜を育てること。通り魔が待ちゆく人を刺し殺すこと、会社員が決算書を作ること。そのようなことは表現ではないと、ここでは定義する。ただし、その行為自身によって生じる超自然的な何かによって世界の変化を行為者が願っているのなら、それは表現になると思う。農家が野菜を育ててそれによって人が美味しいと思って欲しいとか、通り魔がその行為によって社会を不安に陥れたいとか、できるだけわかりにくい決算書を作って会社の状態をこれから見る人にわからないようにしたいとか、そういう意図があるならば、それは『表現』としてみなせると思う。

……ここまでが、まず、前提。「『表現』という言葉をここで使うために定義した」というところまで。今から、表現者と、表現を行うのが難しくなった時代について話す。

今は誰もが表現をすることができる時代。というより表現をすることを強いられている時代。

少し、個人の宇宙の形について話しをした部分に戻る。
このように、人間が『小宇宙』と『大宇宙』という認識で世界を感じていた時代は実はつい最近のこと、近代に入ってからだ。近代に入って、資本主義が世界を跋扈し、個々人の行動と選択に『自由』が出現し、色々なことを『自分の判断』で決めなければならなくなった。それによって、小宇宙と大宇宙を隔てる、『幕』が発生した。じゃあ、それ以前はどうだったかっていうと、殆どの人は、大宇宙を内面化して、世界や社会のありようと寄り添うように生きていた。その場合、行動と選択の自由はないし、『表現』も存在しない。田山花袋の『布団』でラスト、弟子が田舎に帰ったあと送ってきた文章が昔ながらの定型文だったことにすごくがっかりするシーンがあるが、それが、近代以前と以後の違いを分かりやすく示している。
そして、現代である。現代は、誰もが表現を行う主体になれる時代である。むしろ、全ての人間に表現を行うことを強いる。誰かと違う、自分だけの服の着こなし、個性、個性。社会の側から、個人に対して『お前は誰か』という問いかけを常に行っている時代である。さあ、俺と君とで表現バトルで勝負だ!表現が強ければ強いほど、人に評価され、社会からの報酬が増える時代になった。

さあ、この世界であなたは表現者になりたいか

そして、今の時代、表現を行うツールはたくさんある。youtubetwitter、漫画、インターネット、小学生の子供たちの夢にも、『絵を描く仕事』『youtuber』が上の方に来ている。みんな、自己表現ということの価値とそれによって評価されることの甘露を幼稚園のうちから知っている時代なのだ。みんな表現者になりたいのだ。

で、『誰もが表現者になれる時代はとっくに終わった』のか『ほとんどの人は、そもそも表現者になりたいとは思ってないのでは』

この2つの記事。言葉の定義なく話されているので、多分、お互いに話していることがすれ違っているように感じる。悲しい恋人同士のようです。

まず、言葉の定義、シロクマ先生の記事の『表現者』という言葉について。これは多分「表現を行う者」という雑多な意味ではなく「表現によって生計を立てているもの、または表現によって十分な承認を得られているもの」ということを『表現者』と書かれているのだと思う。というかそう読まないと文章の意味が上手く通じない。

そして、ふろむださんの『表現という行為を行う者の内面(行動目的)』について、これは納得のいくところです。そして、『誰もが表現者になれる時代はとっくに終わった』と『ほとんどの人は、そもそも表現者になりたいとは思ってないのでは』というふたつのブログは、シロクマ先生の方は「なりたい人間がなれなくなった」ふろむださんのほうは「なりたいと思う人間はすくない」ということを書いていて、お互いの文章が相手の文意を否定していない。双方成り立つ。やはり少し悲しいブログのやり取りだったと思います。

『表現』を行うために。祈りや憎しみや呪いを形而上の力に変えるツールについて。

さて、今までの文章は、特に何か言っているわけではありませんでした。ただ、自分の認識する『世界の認識のありよう』と『表現の定義』をしただけでした。
ここから、ちょっと、自分の考える『表現』についての話をしたいと思います。

今の時代、表現をしやすい時代だと上で書きました。インターネットがあり、簡単に作曲ができるツールがあり、漫画を描くための補助ツールやソフトが無料で使え、それをアップロードするためのサイトもある。『小説家になろう!』は利用者のことを『先生』と呼び、また、なろう利用者も自らのことを小説家と名乗っている(こともある)。自分の考え方では、商業出版していなくても一人でもその小説を読んでくれる人がいたら小説家と呼んでいいんじゃないかと思っています。誰か一人にでも表現が届けば(届いたと書いた人間が信じられるなら)、それは『表現者』なのだと思う。『大宇宙(世界)』に対して変化を与えた(と小宇宙が認識する)のだから。意志(祈りや憎しみや呪い)があり、それが誰かや社会や何かに変化をもたらしたならそれが表現です。

自分は漫画を描きます。ブログも書きます。日記のようにつけている文章もあれば、誰かに読んでほしくて描く漫画や日記もあります。お金も欲しいですが、それよりもその描いたものによって誰かの世界の見方が変わったり、人生が変わることの方が嬉しいです。ただ、世の中の殆どの人はそういうことを思っていないのだろうということも想像がつきます。『表現』したい呪いや祝いもなく、ただ、表現をすることによって得られる金銭であったり承認欲求であったりに対して興味があり、そして将来の夢やそして実際の職業に『表現者』を選ぶ人もいると思います。そして、たまたま何かを創る才能があり、そうしているうちに本当に誰かに話したいことが出てくることもあると思います。また、逆に、世界に対しての呪いや祝いはあるのに、ものを創る才能がなく、誰にも届かないままインターネットに作品を放出している人もいると思います。どうしようもなくて、物理的な力によって世界に対して変化を行おうとすることもあると思います。表現を行う、行いたい人間というものは、総じて『大宇宙』と『小宇宙』の間の圧力差が大きい人間なのだと思います。小宇宙の圧力が大きくて、物凄い出力で外に対して宇宙が流れていく人。内側の圧力が小さくて外の宇宙に潰されそうになって必死で流れてくる宇宙を押し返している人。今の時代、誰だって表現者になれます。ただ、これからいう2つの能力さえあれば。そしてそれは学習可能です。

『表現』を行うために必要なもの。『言語化』について

自分の中にある、小宇宙、その小宇宙と大宇宙の間の摩擦。表現を行うのに必要なのはその言語化です。
別に日本語に直さなくてもいいんです。何があるのか、それを認識して、形にしていくことによって、表現による成果物、は発生します。

『表現』を行うことができるもうひとつのもの『憧れとミミクリ(模倣)』

突然出てきました。『憧れとミミクリ(模倣)』。なんで突然出てきたのでしょう。それは、この『憧れとミミクリ(模倣)』が先ほどまで話していた『表現をおこなう理由』とは全く別系統から発生しているからです。なんということでしょう。このお話をしようとするとまた長くなるのですが、まあ今日はおいておいて。この気持ちを強く持っていて、そして、『精度の高いミミクリ』ができる人間は表現者として高く評価される傾向にあります。というか、文化ってそうやって作られているところがある。世の中にあふれているほとんどの表現の成果物は、この『憧れとミミクリ(模倣)』と『内面の言語化』によって成り立っています。自分の書いてる漫画だって、コマ割りの仕方や絵柄も誰かの模倣から始まってますしね。

ところで。表現者にならなくてもいい。

表現者は現実に対して形而上の力で変化を与えようとするが、形而下の力で変化を与えようとする人の方が偉い。
世界を良くしようと貧困を解消するための運動をしたり、砂漠を緑化しようとしたり、国家によって行われる不当な差別を解消しようとしたり、四肢が麻痺して動けない人のために新しい義手の開発をしたり、誰でもプログラムが作れるように、プログラムを作るためのAIを創ったり、医者だったり、建物を作る人だったり、そういうことをする人の方が偉い。

なので、漫画を描いたりブログを書いたりしかできない自分はあんまり偉くないんですが、でも、主夫で、家事をメインでやって、子供を育てているので偉い。みんな偉いし、立派だよ。頑張って生きてる。


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